上陸不可の日の周遊ツアーでも満喫できる!軍艦島クルーズは軍艦島以外にも見所がたくさん!

九州
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日本一周旅行の途中で軍艦島に立ち寄りました。軍艦島は、「日本の近代産業遺産」と呼ぶにふさわしい遺跡です。

今回の日本一周の際の長崎訪問では、台風が接近していた影響で軍艦島に上陸することができませんでした。でも、軍艦島に上陸できなくても充実した軍艦島クルーズです。

今回乗ったクルーズ船
今回乗船した軍艦島クルーズは、写真中央の船。

T字型のクレーン ジャイアント・カンチレバークレーン 世界遺産

軍艦島クルーズは、長崎を出港して早速見所があります。ここ長崎は造船の街です。最初に見えてくるのは巨大なクレーン。このクレーンは、「ジャイアント・カンチレバークレーン」と呼ばれる、イギリス製の巨大クレーンです。単なる巨大クレーンと言われると、もっと大きなクレーンが存在しそうです。が、このクレーンはなんといっても1909年、明治時代に作られたクレーンです。

T字型のクレーン ジャイアント・カンチレバークレーン 世界遺産
世界遺産・ジャイアント・カンチレバークレーン

ここの先、第2次世界大戦で使われる戦艦「武蔵」などを製造するに至る長崎の造船業における、近代化の始まりの遺構ともいえます。高さは62メートル、アーム部分は75メートルもあります。

ジャイアント・カンチレバークレーンは1909年(明治42年)に竣工した同型としては日本で初めて建設された電動クレーン。
英国アップルビー社製。高さは約62m、アーム部分の長さ約75m、巨大なクレーンは、三菱重工業(株)長崎造船所内の機械工場で作られたタービンや、船舶用プロペラといった製品や機材を吊り上げ・吊り下げし、船に積み込む役目を担っています。

長崎市観光サイトより

この横をかすめて船は左方向へターン、長崎港内を出て沖合の軍艦島方面へと向かいます。僕がこのクルーズ船に乗った日は台風直撃の直前でありながらも風はあまりなく、絶好の天気だったこともあってか、揺れはほとんどありませんでした。むしろこの先の伊王島を過ぎてからが揺れが一気に大きくなりました。

戦艦「武蔵」も作った「三菱重工業 長崎造船所」の巨大なドック

まだここは長崎港内です。

さらに先に進むと、右手に巨大だけれども少し年季を感じるドックがあります。これが当時世界最大であった戦艦「武蔵」を建造した巨大ドッグです。ちなみに戦艦「武蔵」とほぼ同じ戦艦である戦艦「大和」を作ったのは呉です。

戦艦「武蔵」も作った「三菱重工業 長崎造船所」の巨大なドック
戦艦武蔵を作ったドック

戦争真っ最中の当時、戦艦の建造は軍事機密でした。戦争をしていく上で決して相手国に漏らしてはいけないものなのです。特に巨大戦艦を作るならなおのこと。当時はこのドッグを白い布で覆って作ったそうです。こうして第2次世界大戦当時、世界最大の戦艦「武蔵」がここで建造されたのです。

しかし、進水式だけはどうしようもない。進水くらいいいじゃん、ってなるかもしれませんがそうはいかないのがこの長崎。当時から長崎港には、この巨大ドッグのすぐ近くにアメリカ大使館・イギリス大使館がありました。第2次世界大戦でのアメリカ・イギリスといえば1番の敵国、軍事機密である巨大戦艦の進水を敵国の大使館の目の前でまざまざと見せつけるようにやるのは流石に大問題です。それではここまでの努力が全て水の泡となってしまいます。

そこで、アメリカ大使館・イギリス大使館の目の前に倉庫を作って目隠ししたそう。いや、そもそも長崎は造船所の目の前に敵国の大使館があるんだから別の場所で作れよ、って感じがしてしまいます。しかし、長崎・呉以外に巨大な戦艦を建造できる工場がなかった、急ぎで建造する必要があったため長崎以外の場所や呉で2隻作るということはできなかったなど事情があったのでしょう。

ここ長崎で建造された軍艦武蔵は、第2次世界大戦中、レイテ沖海戦でアメリカ軍によって撃沈させられました。そして最近になってようやくフィリピン海から発見さました。

戦争が終わって、戦艦武蔵のような超巨大で即戦力となる戦艦の建造は行われなくなりましたが、長崎は今でも造船の中心地です。新型コロナウイルスの蔓延が始まった頃にニュースで大きく取り上げられることになってしまったダイヤモンドプリンセスも、ここで作られました。

小菅修船場跡

ここ長崎のまちが造船のまちとなったのは、もう少し前1800年代、日本が開国をした直後に遡ります。

開港された直後、ここ長崎には多くの技術者や資本家たちがやってきました。その1人が長崎の丘の上に邸宅を構えたことで有名なグラバーです。グラバーによって、蒸気機関で船を水揚げして修理する方法が持ち込まれました。その、持ち込まれた技術を使いグラバーによって作られたのがこの「小菅修船場跡」です。日本で初めて蒸気機関で船を水揚げして修理する工場で、これによって長崎の造船業が発達したのはいうまでもありません。

小菅修船場跡
写真で黄色い柱の船のすぐ左に見える、水色の建物が小菅修船場跡

単なる「修船所」、されど「修船所」、開国後だからこそ製造された大型の長距離航行を想定した鉄骨製の船は途中での整備が欠かせません。この小菅修船場跡は後に、明治天皇が初めて長崎に来られた際に視察されています。この時、西郷隆盛が明治天皇に随行したことも有名です。

維新十傑の一人小松帯刀、英国に留学した五代友厚、グラバーと船の修理ドックを造る。
 1866年薩摩藩は外国から買い入れた蒸気船の補修が必要となり、小松帯刀が貿易商T.B.グラバーらと共同で修船場計画を考え、実務には英国留学から帰国した五代友厚があたりました。
英国から輸入したボイラー、堅型2気筒25馬力の蒸気機関、歯車曳揚げ装置が設置され、1869年に完成。
築造当初の1872年7月に明治天皇は小菅の修船場に行幸されています。

長崎市観光サイトより

海面から橋の下までが最も高い橋「女神橋」(ヴィーナスウィング)

続いて見えてくるのが超巨大な吊り橋である「女神橋」。通称、ヴィーナスウィングです。吊り橋といえばこれより大きい吊り橋が瀬戸内海などに存在します。

海面から橋の下までが最も高い橋「女神橋」(ヴィーナスウィング)
ヴィーナス・ウイング

この橋は長さこそそこまで長くはありません。しかし、海面から橋の下の部分までが最も高い橋であり、その高さは65メートルもあります。両端を見ると、特に東側ではこの高さの端にしつつも橋のすぐ東側にインターを作るためにわざわざ下に降りる道路がループ状になっているのが分かります。ここまでして道路を高い位置に作った理由は、ここまでにも書いてきた長崎の事情を考えれば納得できます。

長崎は造船の街です。大型の船がたくさん建造されます。さらに、長崎港には豪華大型客船も多数来航します。そのため、ダイヤモンドプリンセスのような超大型客船が通れるように高さを設定したわけです。ここの橋の高さが低いとその先に大型客船が進めず、港町として栄えた長崎はせっかく市街地から港までが近い、近いというか頑張れば徒歩圏内。なのに、そんないい港まで豪華客船がたどり着けないということになりかねません。

面白いことにこの女神橋の下の部分は、軍艦島の長辺とちょうど一致するのです。つまり、この女神橋の下の部分よりちょっと狭いところに5千人が住んでいたのです。そう考えると、ものすごい人口密度ですよね。

江戸時代から海の要塞だった長崎

長崎は江戸時代から海の要塞でした。旧佐賀藩の砲台がこのあたりにあったのです。

開国の交渉に来た当時のロシア使節・プチャーチンの船には大砲の技師が同乗していました。その大砲の技師は「かなり本格的、この戦艦が沈められる可能性がある」とロシア本国に報告したと言われています。

江戸時代から海の要塞だった長崎
この辺りに佐賀藩の砲台があったと言われている

この素晴らしい、外国の船を追撃できるほどの砲台を作った佐賀藩に、幕府は恩賞も与えているそうです。

岬の聖母像

続いて見えてくるのが岬の聖母像です。ここは今では陸地と陸続きになっていますが元は長崎の市街とは離れた離島でした。

岬の聖母像
写真中央より少し左に「岬の聖母像」がある

大浦天主堂や浦上天主堂のエピソードなどで有名なように、キリスト教が禁止されていた江戸時代、260年に渡って迫害されながらも隠れて心の中だけでキリスト教を信仰したいわゆる「隠れキリシタン」が長崎には数多くいました。

これらの隠れキリシタンが隠れて信仰をしていたのがこの岬の聖母像です。そして開国後も、長崎港を出入りする外国船に乗った外国人のキリシタンたちが、船の上から祈りを捧げていたそうです。

現在の三菱重工業のドッグ

先ほど、戦艦武蔵を作った旧三菱重工業のドッグを紹介しました。続いて見えてくるのが、現在の三菱重工業長崎造船所です。

現在の三菱重工業のドッグ
三菱のマークの大きさが…

このクレーン、クルーズ船から見るとそこまで大きく見えるわけではありません。が、実際にはもちろん恐ろしく大きい。クレーンの上の部分にある、三菱のマークの下地部分の白い長方形が、テニスコートと大体同じ大きさだそうです。単なる小さな、会社のマークにしか見えないのにこの大きさがテニスコートと同じ大きさって…そもそもそんなに大きなクレーンの支柱を作れただけですごいよな。

今回僕が乗った軍艦島クルーズは、途中で伊王島によりました。伊王島はリゾート地となっていて、今では長崎市街方面の九州本島から橋が架けられています。橋の下を潜るとついに船は沖合いに出て、少しづつ揺れてきます。僕が乗った日はそこまで天気が絶望的というわけでもなかったので大きく揺れるということはありませんでした。

高島は江戸時代から石炭が掘られていた

続いて右手に見えてくるのが高島です。

高島は江戸時代から石炭が掘られていた
高島

ここ高島は、江戸時代から炭鉱が掘られていたそう。戦後、炭鉱の主たる役割は今回の目的地である軍艦島(端島)へ移りましたが、元々このエリアの炭鉱はこの高島から歴史が始まっています。

ここ高島では、日本で初めて垂直式に炭鉱を掘る方法が導入されました。垂直に炭鉱をほり、掘った石炭は蒸気機関によって持ち上げられました。それまでは手で地上まであげていたために必然的に炭鉱は斜めに掘る必要がありました。しかし、開国後の蒸気機関の導入により垂直に炭鉱を掘ることができるようになり、このような小さな島であっても比較的安全に、そして効率よく石炭を掘ることができるようになったのです。

軍艦島

ここが今回のクルーズのメインである軍艦島です。めちゃくちゃいい天気にも関わらず、今回は上陸は叶いませんでした。軍艦島への上陸は次の機会に取っておくことにしましょう。

軍艦島は実は元々はもっと小さかった

端島、通称軍艦島に到着しました。

軍艦島は実は元々はもっと小さかった
ここから見ると軍艦に見えなくもない

今でこそ、「廃墟の島」として有名な軍艦島ですが、元々は隣の島「中の島」が本当はメイン。隣の「中の島」の方が本来は大きかったのです。もちろん、この至近距離ですから隣の中の島からも石炭がとれたにはとれたのですが、海水が噴き出てくるなど実際問題困難が伴いました。そのため、中の島ではなく端島(軍艦島)が開発されたのです。元々は単なる岩礁に過ぎなかった端島ですが、後から拡張されて現在の大きさまで大きくなり、その上に街ができたのです。

軍艦島は実は元々はもっと小さかった
ここから見ると廃墟らしさがある

この角度から見ると軍艦島らしさがとても出ています。廃墟となった建物の向こう側に空が見える。今では誰も住まなくなり、窓もなくなっているのです。

軍艦島は実は元々はもっと小さかった
5kmの岩礁まで坑道が続いていた

5km先に島が見えます。島というより岩礁か。軍艦島の地下坑道はあの島まで続いているそう。かなりの距離ですよね。

というわけで、軍艦島を観光して戻ってきました。今回は軍艦島には上陸できませんでした。次に軍艦島へいく際は上陸できるといいなあ。

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